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人工魚礁技術は往時(おうじ)の人達の経験と知恵による「石塚」や「柴漬け」などが祖形と考えられた。それでは人工魚礁はどのような過程で発展してきたのであろうか・・・?
 写真1. 沈船魚礁(佐渡島) |
漁場造成の最も古い記録は、土佐藩奉行の野中兼山(1615-1663)が高知市沿岸に石を沈めて漁場を造っている。その頃加藤清正が江戸城構築に寄進する石を満載した船7隻が時化(しけ)で品川沖に沈没し、その石の山が石塚として昭和の時代までカサゴ、アイナメの好漁場になっていた。1795年には淡路島沿岸で沈船に曳き当てた吾智網がコショウダイを大漁した経験から、大きな木枠に樹木、竹、土俵などを入れて沈設して成果を挙げた。その後沈船、石、樹木、素焼土管などによる漁場造成が沿岸各地で行われ、1918年には世界大戦後の軍縮で処分する軍艦が魚礁とされ、1952年には底曳網の廃船が魚礁として沈設された。コンクリートの人工魚礁は1930年に山口県水産試験場が作成したのが最初のもので、1935年頃には一辺が2m程度のコンクリートの人工魚礁も考案されている。国の事業では1932年頃に築磯という名称で実施されて以来、並型魚礁、大型魚礁、人工礁、海域礁などの名称で事業規模が拡大され、コンクリート、鋼材、FRPなどによる組立方式の魚礁が一般化されて、1995年以降高さが40mに達する高層魚礁、石や貝殻などを利用した餌料培養型の魚礁などが利用されるようになった。
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